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  • 執筆者の写真yuktagerme

祖母の家を見送りにいく

京都の祖母の家がなくなり、土地が売却されるということで見納めに訪れた。


祖父母も亡くなって数年経ち、叔父の家族が住んでいるものの広すぎる。


時の流れとともに仕方がないこと。

とはいえ純粋にさびしい。


幼い頃から就職、結婚しても、毎年お盆とお正月は祖父母に会いに訪れていた。


祖母は痴呆が進んでもたまにしか会わない私とは良い刺激だったのか、会話もちゃんとできて、なにかと世間話をしていたと思う。


祖母も亡くなって数年経ち、家は使われない部屋も増え、空気が滞っていた。


従兄弟達の荷物の引き上げ準備もあって荷物が雑多に広がっている様子の室内はもう人の住む場所ではなかった。


私の実家は地震で全壊し、一夜にして瓦礫の山と化した。


小学生だった私、大人たちも呆然と立ち尽くし、受け取り難いその衝撃は時間をかけて徐々に出てきた。


当時はどう感じるか自分でも分からないくらいの衝撃というか。どこか他人事のようにすら感じる変な冷静さ?みたいなものがあった。


その凄まじさや怖さは今になって感じるようになった気もする。


でも自分の親しんだ場所、特に住まいの空間がゆっくり時間をかけて衰えていく、空間のあり方が壊れていく様子をみるのも辛いなと思う。


祖母の家が無くなることは寂しい。でももう私の親しんだ祖母の家はとっくになくなっていたんだなと。


残骸、抜け殻のような家だった所。それは小一時間いるだけで、とても疲れる場所だった。


小さな引き出しや小皿などを分けてもらい、仏壇にもお礼を伝え、祖父母と恒例で訪れていた焼肉店に行く。


その焼肉店もまた改装していて、なんと店内に竹林、小川が流れていた!


建て替えまではいかなくとも、住む空間は手入れを滞りなく毎日行うことが大事なのかもしれない。


モノは思い出を含むかもしれないけど、埃をかぶってしまえばただの瓦礫。思い切って捨てるのもありだ。


落とした疲れは汚れや埃となって住む人の身体と精神の風通しをも悪くする。


先ほどの焼肉店も店内の中央に水が流れていた。多くの人が出入りし、様々な落としていった目に見えないものを流す効果も狙っているのかもしれない。


小皿を分けてもらった分、使わない食器を整理しよう。



貰ってきたシーサー。洗って日向ぼっこさせているところ。久々の太陽と風で気持ち良さげ。





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